海の彼方の
  ニッポンを訪ねて
  • ■私たちは英霊顕彰を柱とする民間交流の拡大と深化によって、世界一の親日国・台湾との国交回復を図るとともにわが国・日本を世界に冠たる道義国家として再建することを目的に活動しています。
  • ■平成11年に開始された台湾慰霊訪問の旅も早いもので、今秋で18回目を迎えます。この間、台湾の皆様には心暖まる歓迎をしていただき、誠の家族交流・兄弟交流を深めることができました。
  • ■そこでこの度、訪問団の報告を中心にその足跡をまとめ、団員の声として参加者の感想文を集大成しましたので、公開させていただきました。本来ならば参加者全員の感想発表を掲出させていただくところですが、とりあえず事務局で厳選させていただきましたことをご容赦願います。
  • ■ご覧になる場合は上記の項目をクリックしていただければ目的のメッセージに到達いたします。この情報をご参考に台湾慰霊訪問の旅にご参加いただければ幸甚の極みです。

認識日本
認識台湾は認識日本への道
 公教育において台湾人(国民)が台湾(国家)のことを当たり前にきちんと教えられることをこんなに羨ましく思うのは私ひとりだけではないと思います。
 千葉県佐原市(現「香取市」)の香取神宮の境内で生まれ育った私が思い起こすに、小学校時代にそのお宮のことを正規の教科で教えられた記憶はありません。中学、高校でソ連(現「ロシア」)のコルホーズやソホーズ、中共の人民公社は叩き込まれても、大化改新以降のわが国の君民一体の歴史については、たったの1分間でさえ教えられなかったと記憶しています。
 認識台湾から学ぶこと、それは認識日本の絶対的必要不可欠性ではないでしょうか。

認識台湾と蔡英文
 今年1月16日に台湾総統選(直接選挙)で選ばれた蔡英文女史は先月、5月20日の就任式を経て、多数派与党を率い、いよいよ国政の舵取りに船出します。中華民國第14代総統として台湾のトップに躍り出た瞬間です。
 大東亜戦争終戦に伴い、わが国が施政権、行政権を[台湾人に]返還した台湾、1947年に2.28事件を経験し、それに続く41年間の戒厳令に耐え抜いた台湾、1988年1月13日、蒋経國総統の死去に伴い、第7代総統を引き継いだ李登輝氏の治政下で復権された領時代を「認識台湾」という形で公教育に導入した台湾、同じ戦後を経験しながらも「反抗期」なる禁じ手だけは使わなかったが故に家庭教育と家族の絆が維持され今日に至るも守られている台湾、太陽花学生運動を国民的規模で応援し、両岸サービス貿易協定を葬り去った台湾。
 そのような経緯を主体的に担い、地道に勝利体験を積み上げてきた、したたかで誇り高い国民であるからこそ天は最も相応しい人をリーダーとして遣わされたのではないでしょうか。
 民主主義の経験もなく、そのための教育を受けることもなかった戦後台湾が、台湾人の台湾人による台湾人のための統治を手中にしたのです。

日本統治とは
 李登輝治政の最大の功績は何といっても領台時代の見直し(再評価)と大陸支那との間合いの取り方で仕切り直しをしたことです。
彼はそれまでの台湾で行われていた大陸至上主義を改め、台湾再発見の旅を発進させました。1997年から公教育(中学校)において使用された「認識台湾」(教科書)で育った世代が、今や台湾の壮年層を形成するまでになりました。
 NHKがどんなに悪意を込めた番組(「アジアの一等国」)を放送しようが、親日を捨てなかった台湾人を作った日本統治とは、一体どういうものだったのでしょうか。それは、公(おおやけ)第一、私(わたくし)第二の国づくりといえます。
 そして、その考え方を親和性をもってしっかりと受け入れてくれたところが台湾のすごいところでした。そしてまた「公第一、私第二の国づくりドキュメント」を中学校における公教育で教えたところに台湾人の偉大さと先見性、そして勇気があります。

日本の明治・大正・昭和が作った理想郷である台湾50年
 日清講和談判後、台湾に渡った明治人が学校令、徴兵令の下における教育と訓練を受けた日本人であったことは意外と見落としがちなところです。
 当時のわが国の教育は素読と暗誦が基本でした。そういう中、国民皆兵制度のもと、陸軍に入隊した男たちは例外なく全員が明治15年1月4日に下賜された「軍人勅諭」を暗誦しました。2686文字もの長文をです。初等教育では男女を問わず全ての国民が「教育勅語」を諳んじました。民族の祭主であり、皇軍の大元帥であられる天皇の諡号は、初代・神武天皇から第121代孝明天皇まで競って覚え込みました。
 国生み神話から今上陛下に到るまでの家系を素直に体得することで、天上界に淵源をもつ天皇家にお仕えする臣民になっていったのです。「公(おおやけ)第一、私(わたくし)第二」の権化、化身はこうして作られていきました。
 いわば、こういう人たちが主力となって台湾に渡っていったのです。私文化(わたくしぶんか)の極みともいえる支那文化しか知らなかった彼らにとってこれは天地が逆様になるに等しい晴天の霹靂といってもいいものでした。

明治を誕生させた幕末日本の底力
 しかし、そのような明治は誰がプロデュースしたのでしょうか。
 迫り来る白禍に対して果敢に挑戦し、神武創業の精神を基本に国づくりに奔走したのは、当時の外様大名や脱藩武士でした。徳川幕府も叡智の限りを尽くしましたが、結果外敵に対してはオールニッポンが力を合わせて撃退することができたのです。これは徳川260年の安定と治政がもたらした民度の高さと、武士階級の存在なくしては到底考えられないことです。
 当時の日本人にとっては、明記されてなくても国の護りは当然のことでした。国権があってこその人権ということは子供でも理解して判っていました。今日行われている国権を否定する「平和教育」や民心を「私(わたくし)第一」に誘導していく「人権教育」が「教育」の名をかたった「プロパガンダ」(宣伝工作)といわれる所以はここにあります。

認識日本こそが救国の道
 現代の台湾人が「認識台湾」(教科書)を媒介にして領台時代と公正に向き合い、日本と日本人を好きになるということは、その時代が彼らにとっても良かったということの何よりの証左です。公心の権化ともいえる当時の日本人を一言で言い表わすとすれば、「勇気」と「責任感」に凝縮されます。そして、このような日本人の生き方、考え方に最も鋭敏に反応したのが台湾人でした。誠心(まごころ)に感応する共鳴板をもっていたからです。
 反対に現代の日本人がいつまでも中韓の顔色ばかり窺がって教科書を編集しているようでは、わが国には永遠に夜明けは訪れないでしょう。いかに困難であろうと自国の歴史と伝統、文化に正しく向き合わせる「認識日本」の作業をおいてわが国を再生していく道はありません。

慰霊訪問団の今日的課題とは
 平成11年に開始されたこのプロジェクトも早いもので18年の歳月を刻むに至りました。
 かつて、わが国(天皇陛下)の要請に応え、自存自衛と大東亜解放のために散華された台湾人若者を顕彰することは、両国の民族的、国家的紐帯をその基底部分(最深部)において再構築していく試みそのものと言っていいものです。
 政治や経済、文化や趣味、芸能やスポーツ等様々な領域で多彩な交流が展開されていますが、台湾人若者の英霊顕彰を柱とする「魂の交流」の深化拡大を図ることこそが、世界一の親日国・台湾の維新元年を共に担う国民にふさわしい行為であると確信する次第です。

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