海の彼方の
  ニッポンを訪ねて
  • ■私たちは英霊顕彰を柱とする民間交流の拡大と深化によって、世界一の親日国・台湾との国交回復を図るとともにわが国・日本を世界に冠たる道義国家として再建することを目的に活動しています。
  • ■平成11年に開始された台湾慰霊訪問の旅も早いもので、今秋で18回目を迎えます。この間、台湾の皆様には心暖まる歓迎をしていただき、誠の家族交流・兄弟交流を深めることができました。
  • ■そこでこの度、訪問団の報告を中心にその足跡をまとめ、団員の声として参加者の感想文を集大成しましたので、公開させていただきました。本来ならば参加者全員の感想発表を掲出させていただくところですが、とりあえず事務局で厳選させていただきましたことをご容赦願います。
  • ■ご覧になる場合は上記の項目をクリックしていただければ目的のメッセージに到達いたします。この情報をご参考に台湾慰霊訪問の旅にご参加いただければ幸甚の極みです。

日清講和条約締結120年/終戦70年 福岡宣言(日本語・漢語の順で掲載)
<前史>
 太古の昔より、支那から太平洋への出口を弓状に連なる島嶼群(日本列島含む)で塞ぐ形に位置するわが国にとって、大陸との緊張関係はいわば歴史の宿命であった。

 典型的な例が鎌倉時代における文永・弘安の役、いわゆる元寇である。当時の世界帝国・元に対して服属を拒否することは即戦争を意味し、その結果「くにの滅亡」を招来した時代に、ゆるぎない決意をもって一大祖国防衛戦争に決起したわが国の先達に対して私たち日本人は今さらながら畏敬の念を禁じえない。顧みるに、この戦さのためにのみ誕生し、早世していった北条時宗のような指導者に連綿と導かれてきたのがわが国の歴史であった。

 わが国の黎明期である大和から飛鳥に移りゆく時代、聖徳太子は隋の焬帝に遣隋使・小野妹子を通し国書を認(したた)めている。「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す 恙無きや」と。華夷秩序を自然の摂理と考え、支那に対し朝貢外交以外の接し方を知らなかった時代にわが国・日本の採った態度はまぎれもなく青天の霹靂と映ったに相違ない。しかし、それは決して偶発的なことでも、情緒的なことでもなかった。国の行く末を見据え、入念すぎるほどの準備と、首尾一貫した計画にもとづく、まさに「千年もの」、「万年もの」といっても過言でない勇気と決断の賜物であったのである。

 自国の民族の歴史にわが国が無数に生み出してきたような英傑を輩出できないが故に、何万という部族や民族が、支那に服属を強いられ、かつて存在したという痕跡さえ奪われてきたのが東アジア史の冷厳な真実である。西洋(人)がみずからをヨーロッパ(人)としてすら自認し、確認できなかった時代に、すでに十七条憲法を制定し、大化の改新を断行し、公地公民制度を確立したわが国が「世界最古の国民国家」と称される所以はここにある。ほどなく記紀を編纂したわが国は、天上界に淵源をもつ、天皇を中心とする奴隷も階級もない一大家族国家として歩むことを内外に宣言した。

 支那との間に対等外交を展開する国体を維持しえたがゆえに遣唐使を廃絶し国交を断つことができた。そうであるからこそ、元寇にも正気を失わずに国を挙げて対処できたのである。またこのような国の資質を体得してきたが由に西洋人のいう「地理上の発見の時代=大航海時代」(応仁の乱から信長、秀吉を経て家康に至る時代)にわが国だけが南蛮人や紅毛人の武力侵攻や耶蘇教の宣伝工作に屈することがなかった。

<本文>
かかる前史を辿ってきたわが国が迎えた最大の試練のひとつが産業革命を遂行したヨーロッパと正面から向かい合うことになる幕末から明治に至る時代である。

 それは新興国アメリカの東インド艦隊が浦賀に来航するところから始まった。急速かつ広範囲に亘り怒涛のように押し寄せる外圧に、当時の先達は神武建国の精神にたちかえると共に大政奉還、廃藩置県の断行をもって応じた。国家存立のために矢継早な改革を迫られながらも五箇条の御誓文、軍人勅諭、大日本帝國憲法、教育勅語と着実に国体を整備していった様は、千二百年以上も前の一大建国事業を彷彿させるものであった。

 その若き明治国家・日本が最初に受けた試練が日清戦争である。明治十九年八月一日、長崎に入港した清国北洋艦隊の暴虐を目のあたりにしたが、海軍力で決定的に劣っていたが故に為す術がなかったわが国は、八年後の明治二十七年の同じ日、八月一日、清国に宣戦を布告した。臥薪嘗胆の賜物であったこの戦さは近代日本初の自衛戦争の勝利で帰結した。
如何に狂風吹きまくも    如何に怒濤は逆まくも
仮令(たとえ)敵艦多くとも   何恐れむや義勇の士
大和魂充ち満てる      我等の眼中難事なし

維新以降(このかた)訓練の   技倆試さむ時ぞ来ぬ
我帝國の艦隊は       榮辱生死の波分けて
渤海灣内乗り入れて     撃ち滅ぼさん敵の船

 明治二十八年四月十七日、下関の春帆樓における日清講和会議の結果、台湾は日本に割譲された。明治四年の牡丹社事件の際、日本側全権副島種臣に対し、清国皇帝をして「化外の地」と言わしめた台湾が名実ともに日本に帰属した瞬間である。爾来、百二十年に及ぶ日台関係はこの時をもって起点とするが、台湾の歩みは華夷秩序から限りなく離脱する軌跡を描いて今日に至る。日清戦争によって朝鮮を支那の冊封体制から解き放ったわが国にとって、その十年後に訪れたロシアの重圧は、かつての元寇を想起させるだけにとても容認できるものではなかった。(日露戦争)

 そのようなわが国が欧米白色人種の圧政に呻吟するアジアをその鉄鎖の軛から解放せんと開始した大東亜戦争は、いわば歴史の必然といってよい。日清講和四十八年、日露講和三十八年の昭和十八年に発せられた「大東亜宣言」ほどわが国の戦争目的が感動的に語られた例はない。

 昭和二十年、わが国は三年と九ヶ月に亘る大東亜戦争の終戦を宣言したが、有史以来、有色人種の国で支那の冊封体制への編入を拒否し、元を撃退し、近代においては欧米列強の植民地にもならなかった国が果たしてあっただろうか。また支配・被支配の関係からしか世界が考えられない時代の中で、「八紘一宇」として人間皆同胞・兄弟の姿勢で臨む国があっただろうか。

 終戦七十年を迎える今日、私たち日本人にとって一番大切なことは、神武建国以来、わが国が辿ってきた歩みを正しく把握し、いかに先人が公のために心を尽し、国を護ってきたかを素直に認めることである。もし世界に奇跡があるとするならば、それは天皇を中心とする家族共同体が、西暦二十一世紀の今日に至るまで連綿と続き、一億の民を擁しながら近代国家として成り立っている事実である。

ますらおの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

 これは、靖國の杜の遊就館に掲げられている歌だが、累々たる戦人(いくさびと)の命によって護られてきた公心(おおやけごころ)の国・日本を、百二十年来の友であり、同胞である台湾の皆様と共に未来に繋げ、現在途絶えている国交を速やかに回復し、世界も羨む二国間関係を築いていくことこそが、日清講和条約締結百二十年、終戦七十年に最もふさわしい誓いの言葉である。

その証しとして、ここに『福岡宣言』を献げる。

『福岡宣言』

一、支那の冊封体制から朝鮮を解放したわが国の戦争目的は時を経て昭和十八年の大東亜宣言に引き継がれる。その結果、アジアにおける欧米白色人種の植民地支配体制は悉く終えるに至った。これが終戦七十年の歴史である。

一、日清講和条約の締結により台湾は大陸から離脱した。今こそ大陸支那は、百二十年に及ぶ割譲による台湾放棄を認めるべきである。

一、わが国・日本は、台湾とご縁が結ばれた明治二十八年四月十七日の春帆樓の初心に立ち返ると共に、断交四十三年の道義的責任を感じ、国交改善と関係正常化に取組むべきである。

平成二十七年六月二十一日
日華(台)親善友好慰霊訪問団
第十三回台湾特別講演会参加者一同

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<先前歴史>
  自古以來,支那往太平洋的方向分布著連綿不斷的島嶼群(包含日本列島),如同一個弓狀物堵在出口,我國位於此處,而此地理位置導致我國與大陸的緊張關係成為了歷史宿命。

  典型的例子即鎌倉時代文永・弘安之役,也就是所謂的元寇。在當時拒絕服從世界帝國--元朝,等同於即刻宣戰並招來國家滅亡的時代,生於現代的我們(日本人)不禁對當時下定決心準備展開防衛祖國大戰的先祖們心懷敬畏。回想過去,我國歷史就如同一直被北条時宗這般因此場戰爭註定生死的人物所領導。

  我國的黎明期從大和到飛鳥時代,聖德太子透過遣隨使小野妹子交給隋焬帝的國書上寫著,「日出處天子致日沒處天子無恙」。當時華夷秩序被認為是絕對真理,且除了朝貢支那以外不知有其它外交手段,我國採取這樣的態度,對支那來說如同晴天霹靂。不過那絕非偶然發生的事,亦非情緒作祟。那是經過縝密思考國家未來,做好萬全的準備與頭尾一貫的計畫,即使說這是千年萬年的勇氣與決斷所賜的結果也不過。

  自國的民族的歷史上因為不像我國孕育出無數的英雄豪傑,所以數萬個部落和民族被迫附屬於支那底下,最後連曾經存在過的痕跡都被消滅,這就是東亞史上冷酷的事實。在還無法確認西洋(人)自認為是歐洲(人)的時代,我國已制定十七條憲法,實行大化革新並確立公地公民制度,因此我國才足以稱為「世界最古老的國民國家」。不久之後,我國編纂記紀(古事記與日本書紀),對內外宣佈成為與天界保有淵源,並以天皇為中心、無奴隸制度與階級制度的一大家族國家。

  在維持國家主體與支那展開平等外交關係一段時間後,終究還是廢遣唐使並斷絕邦交關係。正因如此,元寇來襲時可以不亂方寸舉國對抗。我國的建國過程中經歷上述種種過程,所以才能在所謂的大航海時代中(從應仁之亂,經信長、秀吉至家康時代)做為唯一免於屈服南蠻人,紅毛人的武力侵略及基督教傳教活動的國家。

<本文>
  在這過程中,我國所面臨最大試煉之一,即在幕末至明治時代與已經完成產業革命的歐洲國家正面交鋒。

  事情始於新興國家美國的東印度艦隊來到浦賀港。受到又急又廣、如同怒浪般襲擊而來的外在壓力,當時的先賢們學習神武建國的精神實施大政奉還,廢藩置縣來作為對抗。為了國家存亡即使是被逼迫快速改革,也寫下了五箇條之御誓文、軍人勒諭、大日本帝國憲法與教育勒語來整頓國家體制,彷彿見到了一千兩百多年前的一大建國事業。

  當時年輕的明治國家--日本最初面臨的試練即日清戰爭。明治19年8月1日親眼看著清國北洋艦隊進入長崎港大肆破壞,而當時我國的海軍戰力仍處於劣勢無法與其相抗。終於在8年後明治27年的同一天8月1日正式向清國宣戰。臥薪嘗膽的結果,此戰役成為近代日本首度獲勝的自衛戰。

如何に狂風吹きまくも    如何に怒濤は逆まくも
仮令(たとえ)敵艦多くとも   何恐れむや義勇の士
大和魂充ち満てる      我等の眼中難事なし

維新以降(このかた)訓練の   技倆試さむ時ぞ来ぬ
我帝國の艦隊は       榮辱生死の波分けて
渤海灣内乗り入れて     撃ち滅ぼさん敵の船

  明治28年4月17日於下關春帆樓進行日清講和會議,結果將台灣割讓給日本。在明治四年牧丹社事件之際,當時清國皇帝對日方全權副島種臣所說的「化外之地」,在這瞬間名義上與實質上都完全歸屬於日本。爾來長達120年之日台關係從此時此刻開始,台灣的腳步亦脫離了華夷秩序直至今日。我國因日清戰爭將朝鮮從支那冊封體制中解放,而十年後俄羅斯加與我國的重壓,讓人想起過去的元寇而無法容忍。(日露戰爭)

  我國為解開歐美白種人強加於亞洲國家的枷鎖而開始大東亞戰爭,也可說是歷史必然的結果。再也沒有比日清講和48年後、日露講和38年後的昭和18年時宣布我國戰爭目的之「大東亞宣言」更令人感動的了。

  昭和20年我國宣佈結束歷經3年又9個月的大東亞戰爭。有史以來,除了我國,是否還有其它有色人種國家能拒絕支那的冊封體制,擊退元寇,於近代史上免於成為歐美列強的殖民地?在那個只有支配及被支配的時代裡,除了我國,是否還有其它國家主張「八紘一宇」、人人皆同胞皆兄弟的治國理念?

  迎接終戰70年的今日,對我們日本人來說最重要的是正確理解神武建國以來的國史,並認同先人們鞠躬盡瘁守護國家的事實。如果世界上有奇蹟的話,那就是以天皇為中心的家族共同體,一直到西元21世紀的現在仍連綿不斷,並擁有一億子民的近代國家。

ますらおの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

  這是掛在靖國神社「遊就館」裡的一首和歌,祈禱靠著無數先烈犧牲才得以守護的國家日本,能與120多年來的友人、同胞--各位台灣人共同攜手向前,盡快恢復邦交,建立讓世人稱羨的兩國關係,才是最適合日清講和條約締結120周年、終戰70周年紀念的誓詞。

  以此為證,在此獻上『福岡宣言』

『福岡宣言』

一、將朝鮮從支那冊封解放的我國,其戰爭目的是延續之前昭和18年的大東亞宣言。結果係終結歐美白人對亞洲的殖民地支配。此即終戰70周年的歷史。

一、因日清講和條約的締結台灣已脫離大陸。在今日大陸支那應該承認120年前的割讓等同於放棄台灣的事實。

一、我國日本應該要回到與明治28年4月7日在春帆樓與台灣結緣的初心,感念台日斷交43年來的道義責任,力求盡快改善邦交及關係正常化。

  平成27年6月21日

日華(台)親善友好慰霊訪問團
第十三回台灣特別講演會参加者一同

日華(台)親善友好慰靈訪問團(團長/小菅亥三郎)
〒810-0001日本 福岡県福岡市中央区天神1-3-38天神121ビル13階
TEL(092)722-0021 FAX(092)725-3190 担当 佐藤・原田

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